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バンドが大きくなってホールなんかでライブをやるようになったら、ライブの演出が派手になっていくことが多い。

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これは、たくさんのお客さんをライブにいれることにより「ライブにかける予算」がライブハウス時代よりも上がるからであるとともに、物理的に広いホールのステージの最後尾の人でも、ライブハウスにいるときのような臨場感(つまり、ライブに参加してる感)を出すように目論んでいるわけである。

バンドの場合、ホールのライブで行う演出の代表といえば、照明だと思われる。

色とりどりのランプでライブ空間を彩ったり、アーティストの上に飾られたどでかいビジョンに、色んなタイプの映像を映し出したりするわけだ。

そんな演出に対して、ライブハウスの頃からバンドを見てきた人だったりすると「照明で彩られてもなんだか距離を感じるだけ」とか「シンプルに歌と演奏だけ聴き込みたいのに、照明は邪魔」とか「サカナクションに比べたらなんだか微妙」とか、往々にしてディスりがちな空気になることもある。

人によっては「これはバンドの本心じゃなく大人の事情によりやらされているのだ」みたいな、陰謀論めいた物言いをする人も出てきたりする。

確かにある音楽を好きになれば、その音楽を作っているバンドのことが好きになるのはよくわかるし、その過程の中でそのバンドが絶対的中心になるという価値観もよくわかる。

けれど、モノを作って世の中にリリースし、それでメシを食うという仕組みにいる限り、バンドメンバー以外の様々な人のアイデアの上で何事も進めているという現実は知っておくべきだと思うのだ。

つまり、そのバンドが好きであると思っている「その」の部分って、バンド以外の人が関わっている要素もそれなりにあるんだよって話。

例えば、CDリリースということで考えてみたい。

これこそまさしく、バンドのメンバーが曲を書き、バンドのメンバーが各々の楽器のパートを考え、ひとつひとつ形にして作り上げるという意味で、純100%バンド産なのである、と思っている人もいるかもしれないが、当然ながらそんなことはない。

曲を書くという作業自体はフロントマンが孤独に行うものなのかもしれないが、メジャーであれば課せられたノルマの上で作品を作っていくわけだし、タイアップが付いた場合は、その「相手」が納得いくものを作らないとボツになる。

タイアップが付いた歌の歌詞というのは、そのタイアップ作品と「近からず遠からず」な距離にいるような歌詞になりがちになるのは、そういう理由なためだ。

その作品のことを歌った感じの歌詞にしないと、普通は「相手」から怒られてダメ出しされるわけである。

タイアップだからと割り切りつつも、全然割り切っていない感が伝わる名曲といえば、宇多田ヒカルの「kiss&cry」である。

歌詞を読めばわかるが、この歌には「日清CUP NOODLE」という歌詞が入っている。

けれど、歌詞全体で捉えると、この言葉をこの歌詞に使う必然性はほぼ皆無である。

この歌は「日清カップヌードル」のタイアップのために書き下ろした曲であり、曲を作るうえでスポンサーから何かしらの注文があったわけだ。

で、注文をクリアーするひとつの方法として「日清CUP NOODLE」という言葉を使用したわけだ。

ただし、カップヌードルを賞賛するような歌を書くのは宇多田ヒカルの美学に反する故、「言われたことはするけど、それ以外の部分は自分の作品として捉えてしたいことをするね」と言わんばかりに制作を進めた結果、こんな不思議な歌詞ができたのだと思われる。

ちなみにこの歌、元々は「リストカット」というワードが歌詞に入っていたらしいが、スポンサーからこの歌はあくまでも食品のタイアップソングなのだから血を連想させるような(食欲を減退させるような)言葉は入れないでほしいという注文を受けたため、「リストカット」という言葉は省かれて、代わりに「リストラ」という言葉が採用されたのだとか。

CMタイアップ曲はスポンサーの意向が絶対なのである。

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また、CM曲でもうひとつ特徴的なのは、尺である。

CMは基本30秒か45秒の尺でOAされる。

つまり、必要尺はそれだけであり、楽曲であればサビさえあれば十分なわけだ。

だから、CM用として取り急ぎサビ部分だけ作って納品し、その後「じゃあCDをリリースするためにAメロBメロも考えなくちゃね」と腰を据えたりすることもあるわけだ。

どんな仕事にも納期があり、その納期に合わせて優先順位を決めて、仕事を進めていくわけだ。

最近ベスト盤をリリースしたゆずの「虹」もそうだし、夏フェスの定番曲のひとつとして名高いサカナクションの「夜の踊り子」だって、CMタイアップのために取り急ぎサビを作り、
後から他のメロディーをくっ付けた歌なわけだ。

曲を聴いてみると、確かにメロとサビの「温度」が違うことがわかる。

なんだかくっ付けられた感が強いわけだ。

それは、サビだけ先に作らなければならなかったという事情があったからなわけだ。

何が言いたいのかというと、音楽でメシを食う人間による「作品を作る」という動機のほとんどは、大人の事情が絡んでいるということだ。

少なくとも、伝えたいメッセージができたから曲をリリースしようとか、良い曲ができたからそろそろリリースに踏み切ろうみたいなテンションで(普通は)作品制作は行なわれないわけである。

別に、これは悪い話なんかではない。

時間に追われるからこそ名作はできるものだし、制約があるなかで作品を作るからこそ「努力」をするわけである。

また、作品を制作する過程においても、バンドメンバー以外でモノを決まる要素はたくさんある。

作品作りには、プロデューサーなりディレクターなりがいて、そのバンドの「音」にダメ出しをしたり助言をしたりする人がいるわけだ。

つまり、バンドの音をコントロールするプロがいる。

他にも、アーティストが鳴らす音を録音するプロもいれば、その録音した音をより良い案配にするために音を混ぜるプロだっている。

それ以外にも、CDジャケットであれば、撮影するプロもいるしメイクするプロもいるし衣装のプロもいるし美術のプロもいるし、色んなプロがいるわけだ。

当然ながら、それぞれの専門職の仕事をアーティスト側がコントロールすることはない。

それぞれのプロの考えが作品に少しずつ反映していきながら、作品は形になるわけである。

あくまでもバンドが「代表」をしているが、本質的にもっと大きなチームが作ったものという捉え方もできるわけだ。

CDの歌詞カードにどれだけたくさんの名前がクレジットされているのかを確認すれば、ひとつの作品にどれだけたくさんの人が関わり、どれだけたくさんのアイデアが詰まっているのかがわかることだと思う。

こと、ライブの演出だって同じなわけだ。

もっとも視覚的でわかりやすいから、演出の話をすると「照明」に焦点を当てがちなわけだけど、見えないところで色んなプロが色んなアイデアを出してライブを作っているわけだ。

そういう意味では、バンドの「意向」なんて微々たるものなのである。

関わる人数が増えれば増えるほど、規模が大きくなればなるほど、アーティストがコントロールする部分は減り、それぞれのプロに任せる形になるわけだ。

ただし、有能なバンドであれば、事前にそれぞれのプロと綿密なコミュニケーションを取り、自分でコントロールしなくても、自分の「意図」なり「イメージ」なりを具現化してもらうように、仕向けたりするわけである。

つまり、バンドがでかいステージでライブをして、そのときの演出がなんだな微妙だなーって感じるのだとしたら、そのバンドがコミュ症でちゃんと各プロとコミュニケーションが取れていないからなのか、各々のプロがまだそのバンドの「良いところ」をちゃんと汲み取れていないからなのか、そのプロの技術がまだまだなのか、のどれかなのだと思われる。

けれど、これだけは言える。

傍目からみて「作家性」がしっかりしてるなあ、と感じるアーティストほど、周りの人のお膳立てがしっかりしているのだ。

この人はこういう「作家性」を持っていると見られるようにしたいんだなというイメージをしっかり共有できているからこそ、そのイメージに合わせたアシストができるわけだ。

aikoでもいいし、Perfumeでもいいし、ベビメタでもいいし、サカナクションでもいいし、ホルモンでもいいし、ヤバTでもいい。

チーム全体で、アーティストの「作家性」に対するイメージが共有できているから「良い仕事」ができるわけだ。

結局のところ、そのバンドのコミュ力がとても大事なんだよ、という話である。

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