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君の名を見たので、その感想みたいな雑記を簡単に書いてしまいたいと思う。

*2018年になって少し内容を更新しました。

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多かれ少なかれネタバレを含んでいるので、それが嫌いな人はこの記事は読まない方がいいかもしれないです。

前前前世について

新海誠監督は本当に人と人の距離を描き方が上手いなあと思うが、個人としては、あるミスリードによってこの物語の内容を完全に勘違いしていた状態で鑑賞に至っていた。

どういうことか。

僕はこの物語について、男の子と女の子が入れ替わる話だが、男の子は平成の「今」に生きている人間で、女の子は「今」から約300年前くらいに生きていた人間であり、僕と君との間には時間的に大きな差があり、実は男の子の前前前世がその女の子に当たる話だと思っていたのだ。

時間を超えて出会ってしまった二人。

けれど、その二人は同じ魂を持った人間だった。

絶対に出会うことのない二人は、ある意味自分と言っても差し支えのない人間を愛してしまう、自分が自分を愛するという究極の愛。

これこそが映画のテーマだと思っていたのだ。

が、フタを空けてみれば違っていた。

なんでこんなことを考えたのかといえば、「前前前世」という歌のせいである。

僕は、まんまと野田洋次郎のミスリードにしてやられたのだ。(本人はそんなつもりないんだろうけど)

ちなみに映画を見る前に、この歌についてはこんなふうに解釈をしていました。

こちらです。

RADWIMPS(野田洋次郎)はこの映画に歌ものの曲を4曲書き下ろしている。

「前前前世」「なんでもないや」「スパーク」「夢灯籠」の4曲だが、映画のしかる場面で、この音楽が流される。

それぞれの歌詞を読んでみると、どれも映画の内容に関わっているような書き方をしているように見せかけて、微妙に内容から外してきている。

が、野田洋次郎がAimerに提供した「蝶々結び」の歌詞を読んでみると、これこそまさしく「君の名。」の物語のキモに触れた歌詞じゃんか!と感じてしまうものになっていたのだ。

なんなら、この歌詞が一番ネタバレしているんじゃないかと思ったりもして。

どんな歌詞かは外部サイトで確認してくださいね。

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“結び”について

「君の名は。」の内容について考える上でもっとも重要なキーワードのひとつは「結び」である。

映画をみた人なら、ほとんどの人が了解することだと思う。

この映画は、色んなところで色んなものを「結んでおり」、色んな場面で「結ぶ」モチーフを登場させて、瀧と三葉のふたりの繋がりを巧みに画面上に描く。

だから「結び」は重要なキーワードとなる。

そして、そのキーワードをテーマにして、野田洋次郎が書き下ろしたのが、Aimerの「蝶々結び」となるわけだ。

意図的にしろ無意識的にしろ、「君の名は。」との関係性が見えてくる。

もしかしたら「蝶々結び」も映画用に書き下ろしていたが、メロディーが映画とそぐわないという理由でボツになったのではないかと勝手に予想してしまうほど。(まあ、この楽曲自体は映画のオファーをもらうずっと前からあったらしいが)

この「蝶々結び」の歌詞を読んでみればわかるのだけど、この歌詞に出てくるふたりってまるで瀧と三葉のことを指しているように見えてくる。

思えば、ふたりの関係というか距離って、それこそ蝶々結びのようにどちらかが強く引っ張れば簡単にほどけてしまうような、危ういものだったわけで、ふたりの「結び」って、まさしく蝶々結びのようなものだった。

最後のエンディングに思いをはせながら「この蒼くて広い世界に 無数に 散らばった中から 別々に二人選んだ糸を お互いたぐり寄せ合ったんだ」というフレーズなんて、あのエンディングにすっぽりと収まる。

3年ぶりの距離を画面上に示したかのように、最後、階段の上と下で瀧と三葉が出会うのも、ずっとどちらが強く求めすぎず、「せーの」と声を揃えて引っ張るかのように、少しずつ時の流れに身を委ねたからなのかもしれない、なんて思う。

「君の名は。」がもたらす想像力について

この映画、ドアを閉めるときは絶対にドアの横側からのショットで描くようにしていて、そこに「切断」のイメージを持たせるようにしてたいる。

また、開いたドアの方向がショットによって変わってしまうのも「切断感」を作っているように感じた。

この切断感ってわりと重要で、この作品をすごく端的に言えば、二人の運命のために日本の未来を変えちゃうよ、という話になる。

社会を切断してしまって、日本の世界と二人の世界を繋げてしまう物語なわけだ。(だから、この作品には母親が出てこなかったりする)

だから、二人とも外向きというよりは、内向きの想像力の中で生きるわけだ(二人が入れ替わるってまさしくそういうことだしね)

Twitterでいえば、外向きとは雑多な人たちをフォローすることに当たり、内向きとは自分の趣味や嗜好が似ている人だけフォローすることに当たる(まあ、本当はちょっと違うけど)

好きな人だけフォローすればするほど、TLは気持ちの良いものになるし、そこには内向きの世界が構築されるわけだ。

これは何もSNSに限らず、世界でも起こっている流れになる。

例えば、イギリス国民がEU離脱を選択した例をみてもそうである。

あるいは、我が国でも、嫌韓・嫌中の人は多いし、移民なんて認めたら目くじらをたてる人はかなり多い。

外は切り捨てて、内で生きたいと願う人は多いわけだ。

その感覚を推し進めると、僕と君が幸せならそれで良くて、世界なんてどうにでもなれ、って気分になるのだ。

世界に触れるのは難しいから余計にそう感じる。

例えば、世界というものをインターネットに例えたら、もう少しクリアに見えるかもしれない。

例えば、僕のサイトに訪れる人のほとんどはキーワード検索でやってくる。

広大なインターネットの世界の中で、それぞれのサイトに訪れることのできる入り口は基本的に「検索」というものしかない。

「検索」と入り口を使い、でかすぎるインターネットの世界のほんの一部を垣間見るわけだ。

ちなみに、「検索」というシステムはひとつの言葉で検索をしただけでは、自分の得たい情報に簡単にたどり着けないので、「検索」する言葉を増やしていくことで、少しずつサイトを絞っていくと思う。

僕のような小さなサイトは、そういう絞り込みの検索を行うことを想定し、こういうことを検索する場合は、こういう言葉もあわせてキーワード検索する可能性が高いはずだと考え、大きなサイトの縫い目をさぐり、こういう検索のされ方なら上位表示されるであろうという穴場を見つけて、記事を書くわけだ。

まあ、そんなテクニック的な話はどうでもいいんだけど、僕らが「検索」によって繋がるサイトはでっかいインターネットの世界のほんのほんの一部分だということ。

どれだけの言葉を持ち得たとしても、インターネットの世界を(要は検索結果を全てを)覗くことは不可能である。

広い視座を持っても、全部の認識なんて不可能なわけだ。

だから、見えるものだけを「全て」と思い、それを大事にして生きていく。

自分と自分に近い人間だけが幸せならそれでいいやん、という考えに至る。

そんな想像力を肯定的に描いた作品が「君の名は。」という作品なんじゃないかと僕は思うのだ。

もちろん、あの映画は色んな見方ができるし、瀧と三葉の恋の切なさに涙する作品だとは思うけれど、あの作品は、瀧と三葉がこれほどまでに運命的であるということを表現するために、簡単にたくさんの命を殺したり生かしたりしてるわけだ。

だって、二人の恋愛を成就させるためだけに隕石落下を回避させるわけである。

たまたまあの映画は隕石落下を防ぎ、多くの命を救う流れだったから、「えぐいこと」をしているようには見えなかったけど、あの二人はきっと「救われるはずだったはずの多くの人の命を犠牲にしなければ二人は結ばれない」という選択をしなければならないとしても、同じことをしていたと思うし、あの映画で泣いた人のほとんどは、あの二人がそういう生き残り方を選んだとしても、きっと涙したと思う。

結局のところ、よくわからない世界の存亡よりも、自分が知っている人のわかりやすい幸せの方がよっぽどリアルだし大切に思うものだ。

あの映画はまさしく外ではなく、内をみることを肯定する映画だったわけだ。

別記事で、バンドはファンクラブを作ることで、より内向きにファンを囲む流れが加速するなんて書いたけれど、それとも通底する感覚。

それが良いとか悪いとかではなくて、そういう価値観こそが居心地の良いものなんだなーということ。

まあ、偉そうに書いちゃうけど、好きになったらしゃーないし、周りなんてどうだっていい、って気分になるけどね。

理由も論理も全てを排してしまうから、好きという感情は横暴だけど強いエネルギーを放つのである。

ね。

ところで、新海誠はこの映画であえてメッセージを語るとすれば「本当に大切な人はまだ出会っていない人の中にいるし、まだ出会っていない人の中に自分の人生を大きく変えるような存在の人は絶対にいる」というようなことを言っていた。

それこそが、未来への希望なのだ、と

2018年の頭だからこそ、まだ見えていないところに想像のチャンネルを合わせるのは大事なのかもしれないし、そうやって外に目を向けることは大事なのかもしれない。

内向きな想像力を肯定する「君の名は。」から未来という外に目を向ける想像力へ。

なんだかBUMPの歌詞世界みたいだなーと勝手に思ってしまう僕です。

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